オクトパストラベラーから学んだ「知識の独占」について考えた話

注意:以下、ニンテンドースイッチのゲームソフト『OCTOPATH TRAVELER(オクトパストラベラー)』における、「学者サイラス」のストーリーを通しての感想・所感となります。

 

ネタバレになっちゃうからストーリーの展開は話さないんだけども、サイラス先生は「知識は独占せずに広く世に共有するべきだ」って考え方のひとなんだけども、いやほんとそれなってなったんだよな。

書き写すことでしか後世に遺せない時代

作品内の時代背景的にまだ印刷技術が無いので、本を全部書き写さなきゃ二冊目ができないっていう時代のお話なので現代とはちょっと違うのは承知の上なんだけども、なんというか、「あることを知りたいと思った時に『調べることのできる』知識」とか、「知っていればかなしいことを防ぐことのできた知識」とか、そういうのってまじで知ってる側のひとが独占しちゃあいかんタイプの知識だと思うんだわ。

ちょっと難しいところでもあるんだけども、アーフェン(薬師)のストーリー内でも「知る側が優位に立って知らない側を搾取する」みたいなシーンがあって、でも同時に薬師の「技術」は「財産」だから誰彼構わずぽんぽん教えるもんでもないという、ものすごく難しいテーマだなと思いながらサイラス先生とアーフェンの物語をそれぞれ見ていて思ったな。

そういう「後世に伝えなきゃいけない切実な知識や経験」て、それこそオクトパストラベラーの世界ほど技術や文明的な点では切実な問題じゃないんだけども、なんというか、「後世に遺したい」って思うものって、そういった切実なものじゃなくてもいいと思うんすよ。

まどろっこしくなりそうだから頭に残ったままにいうと、「書き写すことでしか後世に遺せないもの」がわたしが学んできた日本古典文学とまるっきりに被ったんだよな。

世の中に余裕がなくなる時、真っ先に消えていくもの

もうさ、なんというか、当時のひとたちには感謝しかないわけよ。

たぶん最初は宮中内でしか読まれなかったものを、それ面白いやれ愉快だと書き写して手元に持って、それが次の世代になっても残って、面白えからって書き写して、残って、書き写して、ようやく江戸時代に版技術ができて、これは面白えからって一気に広まって、もう回収できないぐらいに、戦火すら乗り越えてしまうぐらいに残って、残り続けて、残り続けたからこそ、いまわたしが読んでいる。

執念だと思う。もう、一体何人の執念と戦火を掻い潜ってきた奇跡なんだろうって思わざるを得ないんすよ。古典作品と呼ばれるあれらを「古典」になるまで、もう呪いなんじゃねえかってレベルの執念と偶然という奇跡の積み重ねで、いまのわたしが「面白え」って言いながら読んでる。

そんでもって、たぶん、恐らくなんだけども、俗に言えば「娯楽」、高尚に言えば「教養」、広く言えば「文学」って、世の中に余裕がなくなるほど真っ先に消されていくものなんすよ。具体的に言えば戦とか戦争とか。他にも真っ先に消されていくもを挙げると美術とか音楽とかそういうジャンルなんだろうけど、戦争で科学技術は恐ろしい勢いで発展しても、「作品」に感動したりってのは必要ないんすよ。民衆には。

そう、民衆には必要ないものになる。それを楽しむ余裕があるひとたちが、手に入れるだけの地位を独占したひとたちだけが、民衆から「作品」を奪い取って、いつしか最初から無いものにする。

だからわたしは、「作品」「娯楽」「教養」「文学」は、決して独占してはならない、「後世に遺さなければならない知識」「知っていればかなしいことを防ぐことのできた知識」だと思っている節がある。

民衆の意地で、奪われない時代の維持を

基本的にわたしのことばはわたし自身のことばでないことが多くて、それほどにこの世ってすげえなって思うんだけども、「文系の学問は戦争を起こさないためのもの」ということばが、ずっと頭の中に居続けている

「ペンは剣よりも強し」なんて言葉もあるけども、剣に徒党を組まれたらペンはすぐに死ぬよ。

だけれど、剣を持ったひとたちがペンを知らないから、ペンを使うひとに「使われて」いるのか、それともペンを知ったからこそ持った剣なのかで、一見単純そうな構図の示す意味ががらりと変わってくる。

ペンを知っていたひとたちが、昔はそれこそ地位のあるひとたちが多くて、だからこそ後世にまで残ってきた。そうして、印刷技術という時代が来るまで、残ることができた。だからこそ、ここから先は民衆の意地なのだと思う。

「独占」しないことで「奪わない」「奪われもしない」時代を、作り上げて、維持し続けなければならない。

サイラス先生の物語にわたしが強く反応したのは、ここなんだと思う。
「独占してはならない」「民衆に惜しみなく広く知らしめねばならない」。

「ひとが好きだと感じたものを、ほかのなにかに奪われることがあってはならない」。

たくさんの声に消される価値

いまの時代、恐ろしいのは「民衆」というものは数がとても多いから、「たくさんの声に消されるものがある」という点だと思わざるを得ない。
昔はそれこそ、権力者=声の大きいひとが、民衆から奪ったり消したりしてきた。でも、いまの時代は全てがそうではないとは言えないけれど、そうじゃなくなってきている。

たくさんの声が「必要ない」と言えば、「必要ない」と言われただれかの好きなものが消えていく。
たくさんの声が「必要ない」と言えば、この時代に生まれたものも、古くから残り続けてきたものも、そして、これから新しく生まれようとするものの可能性すら、消えていく。たくさんの声が「奪って」ゆく。
未来が守れなくなる。

価値がある、意味がある、ということばにわたしがともすればやや過剰に反応するのは、きっと此処に起因するものなのだろうと思う。何に価値を見出し、意味を見つけるのか。

本来は個々の選択に任されたものでしかなく、選ばなかった他のなにかを否定し奪い消すためのものではないはずだ。
「意味が無い」「価値がない」ということばに消され、ともすれば生まれることすらできなかったものたちを思うと、悔しくてたまらなくなる。居ても立ってもいられなくなる。

「意味」を見出し、「価値」が生まれるのは罪ではない。問題は、その「価値」を履き違えて「独占」することなのだと思う。
独占が働くことで、自分の信じた価値以外のものを「価値の無いもの」として扱うようになる。そして、「価値の無いもの」に心を寄せるひとたちを否定することで、未来を奪い、その先の未来を消してゆく。

そして、更なる独占が始まる。

「奪う者」ではなく「抗う者」でありたい

オクトパストラベラーの時代に於ける「奪う者」は権力者だった。けれど、いまのわたしが見えている世界に於ける「奪う者」は、同じ民衆だという違いでしかない。
ほんの少しの違いでしかない。だからこそ、言い訳もできない。誰しもが、わたし自身でさえも、「奪う者」になる危険性を秘めながら生きていかなくてはならない。

地獄のような時代だと思う。

だからこそ、その自覚を持ちつつも「奪う者」ではなく「抗う者」で在り続けたいのだとわたしは思う。

王都の学者であったサイラスその人が、「奪う者」を選ばず、共有の道を信念として選んだように。
誇り高き一般人であるわたし自身もまた、「奪う者」ではなく、抗い続けることを選びたいと思った。

そして、きっと、いつかわたしが生きて見ることもできない未来で、少しでも多くのひとたちが、楽しそうに互いの好きなものを持ち寄って笑いあう。

わたしが願い続けている未来は、いつだってとても遠いから。
「そんな先のことばかり考えても、いまの自分の事を考えないと意味がないよ」と。
たくさんのひとが言う。ただそれだけの話。

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